電車を降り、家への道を歩く。こんなに早い時間に家へ向かうのは久しぶりだ。
鍵を開けて中へ入ると、当然のように山脇がついてきた。
「ちょっと……」
抗議する美鶴の言葉を人差し指で静止させる。
「君のお母さんが帰ってくるまで一緒にいるよ。確かに女の子の部屋に入り込むのは気が引けるけど、君を一人にはしておけない。大丈夫、昼休みにコンビニで下着も買っておいたから」
「しっ 下着っ?」
美鶴の悲鳴に山脇は目を丸くする。
「だって、昨日から代えてないもん」
そ …… そういうことか
すばやく視線を落とし、妙に火照った頬に手を当てる。生唾を呑む。額の上あたりで、何かがシューシューと噴出しているようだ。
プッと吹き出す音がして見上げると、笑いを堪えた口元から歯が覗いた。
「何考えてたの?」
向けられた悪戯っぽい瞳。小首を傾げるとサラリと前髪が揺れ、その下の眉を撫でる。彫りの深い、少し翳ったところから覗き込むような円らな双眸に、何かが全身を駆け巡る。
美鶴は、それは怒りだと思った。
「出てけ」
震える声に、山脇は片手をグーにして口にあて、クククッと笑う。
―――哂われたっ
「出てけ――っ!」
ありったけの声を張り上げて鞄を振り回す。
山脇の笑みは途端に驚愕へと変化し、両手を広げて美鶴へ伸ばす。
「ゴメンゴメン」
軽いしぐさで鞄を交わす。
「からかうつもりはなかったんだ。冗談だよ。ゴメン」
「うるさいっ! 出てけっ!」
「悪かったよ」
「うるさいっ!」
哂われた。この男に哂われたのだ―――
耳の奥に嘲笑が響く。
自分を嘲るくだらない人間。
この男もそうなのだ。私を哂うのだ。
私には与えられなかった、恵まれ過ぎるほど恵まれた瞳の奥で、この男も哂うのだ。
哂うのだ………
ブンブンと鞄を振り回す美鶴の手首を、山脇は軽く押さえる。だが、それでもしぶとく暴れる美鶴に、手首を掴む力が強まる。
「危ないって」
「危ないのはお前だろっ 出てけっ 離せっ」
「何が危ないんだよ?」
「危ないもんは危ないんだっ 今度こそ警察呼ぶぞっ」
「落ち着いてっ」
握り締められた手首を力いっぱい振りほどく。山脇が意外にあっさりと手を離したため、反動で体がよろめく。
それでも体制を立て直し、軋む床に向かって叩きつける。
「出てけーっ!」
「落ち着いてよ」
「落ち着けるかっ 出てけっ」
「おばさんが帰ってきたら、出てくよ」
「冗談でしょう! 変態っ! 出てけっ! 警察呼んで訴えてやるっ 出てけっ 出てけっ 出てけっ」
もう半ばヒステリーのように喚きたてる。
山脇は、呆れたのか諦めたのか、しばらく好きなだけ美鶴に喚かせ、黙ってその姿を見下ろした。そして、息が切れ、疲れて言葉が途切れたところに、ようやく口を開いた。
「本気だよ」
それまでの自分の怒鳴り声に比べて、それはまるで秋の鈴虫。小さな声。少し掠れてさえいる。
だが美鶴は絶句し、ハッと顔をあげた。
西洋人のような切れの良さと、東洋人のような丸みを兼ね備えた絶妙な鼻筋。その下の口が微かに動く。形の良い薄い唇がほんの少しだけ開き、美鶴はそこに吸い込まれるような恐怖を感じた。
じっとなんて、していられない。
「どうして」
瞳に気圧されている自分を奮い立たせ、負けまいとして必死に平静を装う。
「どうしてこんなことをするワケ? 私が襲われようとどうなろうと、アンタには関係ないでしょう?」
「関係ない」
言葉を反芻し、その意味を考えるかのように視線を落とし、また口の中で繰り返す。
「関係ない」
関係 ……ない
山脇は口を開き何か言いかけたが、何も言わないまま口を閉じる。だが、それは一瞬だけのこと。すぐに美鶴を見つめ、再び口を開く。
「君のことが好きなんだ」
目の前に、黒い帳が下りてきた。
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